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最高裁判所第二小法廷 昭和27年(あ)96号 判決 1953年11月27日

主文

第一審判決及び原判決を破棄する。

本件を静岡地方裁判所に差戻す。

理由

弁護人清瀬一郎、同内山弘の上告趣意は、末尾添附の同人等の「上告趣意」「上告趣意書訂正並に上告理由追加申立書」「上告趣意補充書」と各題する書面記載のとおりである。

職権により調査するに、本件第一審裁判所は、「被告人は、昭和二五年一月六日午後八時三〇分頃、大橋一郎方に侵入し、殺意を以って匕首(証第一号)で就寝中の右大橋一郎の右頚部を約八回突き刺し、次いで同人妻大橋たつの左頚部後頭部等を約一〇回突き刺し、尚同人長女孝子の頚部を上方より押えつけて、右大橋一郎並に、同たつに対しては、右刺創による失血のため其の場において死亡するに至らしめ、同孝子に対しては、右頚部の緊扼により即時窒息死に至らしめて右三名を殺害した後、同家において右大橋一郎所有の現金約一三〇〇円余を強奪した」との公訴事実に対し、被告人は公判廷では終始右事実を否認していたのであるが、審理の結果第一審判決理由において判示第二として右公訴事実の存在を認定し、その証拠として被告人の検察官に対する第一乃至第三回供述調書中の同人の自白のほか幾多の資料を掲げているのである。そして右被告人の自白にして真実ならば、第一審判決認定の右事実はその挙示の証拠で認められるのであるが、もし右自白にして真実性の乏しいものであるとすれば、右自白以外には被告人をもって本件の犯人であると、それだけで認めるに足る物的その他の証拠は必ずしも十分であるとはいえないのである。そこで右自白の真実性の有無について按ずるに、第一審判決はその挙示の証拠のうちに、証人紅林麻雄の第一審公判廷における、「私は国家地方警察の警部補で本件発生以来その捜査に当っていた者であるが、本年(昭和二五年)二月二三日一応窃盗犯として被告人を逮捕し本件について追及したところ……終に同月二七日に至って犯行を自供するに至った。……又被告人は現場の時計の針をアリバイ偽装の為回した際、蓋をあけた覚えがないからガラスははまっていなかったと思うと自供したので、その自供に基いて捜査した結果、右時計のガラスは去年八月頃から割れてなくなっていた事実が判った。……」との供述、検察官作成の昭和二五年三月一六日附実況見分調書中の「被害者方現場の柱時計の蓋にはガラスがない」旨の記載を証拠として掲げており、又原判決も弁護人田中豊恵の控訴趣意第一点の主張を排斥するに当り、「また本件被害者方の柱時計にガラスがなかったことは、被告人の供述により警察官において、はじめて知ったことは記録上明白である。これらの事情は被告人の自白の任意性及び真実性を裏づける情況証拠とするに足りる。」と判示しているので、第一審判決及びこれを維持した原判決は、被害者大橋方柱時計の蓋にガラスがなかったという事実は被告人が自供したので始めてこれを知り得たことを以って被告人の前記自白は真実であり従って被告人を本件の犯人であるとする根拠の一にしているものである。

しかし記録を精査すると、本件犯行直後である昭和二五年一月七日検察官が本件捜査に関与した国家地方警察警部補紅林麻雄、二俣町警察署巡査部長河合国明立会の上本件被害者大橋一郎方を検証した際の同日附検証調書(第一審判決証拠に引用す)には、「前記中央柱の上方部には即ち第四図の如く丸型柱時計が向って右へ約一〇度位傾いて懸って居り、一一時二分を針指して停まり、下部の振子のあるところの蓋が下方に開放されたまゝであった。此時検事は右柱時計を正常位に復したところ振子の振動を始めた。」と記載されていて、この時既に捜査官及検察官は被害者方には柱時計が存在し、それが右に傾いて一一時二分を指して停っていたことを知って居り、且つ検察官は、この柱時計に手を触れているのである。又その後同年一月二八日には右巡査部長河合国明は、被害者方に臨み同家の箪笥並に柱時計に存する血痕を検証しているのであるが、同日附右河合国明作成の検証調書には、「被害現場たる六畳間北側中央の柱にかけてある柱時計は高さ一米五〇糎の処にかけてあり、この柱時計は丸型で直径四〇糎の大きさの時計にして、該時計の向って左側面の下部に指の跡の様な血痕二個明瞭に附着し居り、此の状況は別添写真第四号並に時計の裏面は第五号参照」と記載され(記録第一冊第一四〇丁)、同調書には写真第四号、第五号として右時計を、柱より取り降ろし、木箱様のものの上に置き、裏側面より撮影した写真(第四号)と同じく裏正面より撮影した写真(第五号)とを添附しているのである(記録第一四四丁及び第一四五丁)。して見ればこの時は河合巡査部長は柱時計を柱より取り降ろしこれを検証しているのである。なるほど右検察官の検証調書にも右巡査部長の検証調書にも右柱時計に硝子がなかったことは記載されておらず、この点が始めて明確に記載されたのは第一審判決が証拠とした検察官作成の前記同年三月一六日附実況見分書においてではあるが、検察官は一月七日の検証の際自ら柱時計の傾斜を直し、その時計の振子の振動し始めるのを確かめているのであるし、河合巡査部長は右一月二八日の検証の際、右柱時計を柱から取り降ろし前記の如く時計に附着した血痕を撮影しているのであるから、もし右時計の硝子が前年八月以来割れて存しなかったものならば、右各検証の際、右検証に立会った検察官乃至警察員には当然その事実が判った筈である。しかも被告人が本件犯行を自白したのは、証人紅林の前記証言によるも右各検証より後の同年二月二七日であるというのであるし、又被告人のこの点に関する供述として記録に表われたものは同年三月五日附司法警察員河合明作成の被告人の第九回供述調書中に「その時ラジオのすぐ横に柱にかかっていた丸型の柱時計を、右手の人差指で長針を二回位回わして時計を止めましたが、その時計には文字盤の覆いの硝子がはまって居らなかったと思いますが、それは私がその時に硝子のはまっている文字盤の覆いを外した覚えがないからであります。」とあるのが最初であるから、(同第四冊第一三五三丁末行より)(被告人が柱時計の長針を二回位回した旨の供述は同年二月二八日附司法警察員河合国明作成の被告人第四回供述調書に始めて表われているが〔記録第四冊第一二八〇丁裏以下〕同調書には硝子がなかった旨の供述記載はない)捜査官が右硝子のなかったことを被告人の自白により始めて知ったということは極めて疑わしいといわなければならない。のみならず被告人が右自供をするに至った経過として被告人の述べるところを第一審第三回公判調書によって見れば、「問、時計の針を回したりしたことは什して言ったのか、答、それは被害者方の内部の様子を聞かれた際、屋内を物色したりしたから色々やっただろうと言われたので、私は新聞でラジオの事が出ていたので、それを言ったのです。私は実際には其の家へは行かなかったのですが、二月二八日図面を書けと言われてそれを書いた訳です。その時ラジオの横に時計を書いたのです。するとその時計を当らなかったといったのです。そして什の様に当ったかと聞くので私は針を動かしたと、それは新聞に出ていたので少し触った丈だというと、もっと細かく言えと言うので針を回したと言ったのです。問、時計に硝子が嵌っていなかったと述べた点は什うか。答、それは時計の針を回したと言った際蓋は什うしたと言ったのです。それで私は判らないと言うと、それでは蓋は開放してあったのかと言うので、私は開けたとか、閉めたとか言うと今度は鍵があったか什うしたとか言われると思って蓋は什うなっていたか知らない、気がつかなかったと言ったのです。すると蓋を開けなければ針は動かせないから針を動したのなら、それでは蓋がない事になるが蓋はあったのかなかったのかというので、私は蓋があったかなかったかは判らないが、蓋は気が付かなかったと言ったのです、問、被告人は時計の蓋があったかなかったか判らないといったのか、答、唯蓋は当らなかったと言ったのです。」(記録第七八二丁以下七八九丁)というのであり、被告人が犯行を自白していた当時検察官に対してした供述を録取した検察官に対する被告人の昭和二五年三月一二日附第一回供述調書によれば、被告人は検挙前既に新聞紙により「被害者方の時計は、格闘したか何かぶつかったかして止まっていたが、故意に止めたのではないかということ」を知っていたというのであるから、時計に硝子がなかったとの事は、被告人が自ら実験したところを述べたものか、又は警察員の追及に対し、新聞紙等により伝聞した知識に基き想像して述べたものであるか不明であって、右時計に硝子が存しなかったとの事実は、被告人の自白があって始めて捜査官が知り得たこと明白なものとは断定し難いところである。むしろ捜査官においては被告人が自白する以前既に十分これを知っていたものではないかとの疑の強いものである。従って被告人が右事実を自供したからといって直ちにその自白に真実性ありとすることはできず、又これを以って直ちに被告人が本件の真犯人であると断定することもできない。

次に被告人が被害者等を殺害したものならば、本件は成人の男、女二人の各頚部を匕首で夫々数回突刺し、被害者等は共に多量の出血をなし、その血は附近に積み重ねてあった箪笥の抽出の相当の高さの処迄飛散しているのであるから(前記一月二八日の警察員検証調書)犯人たる被告人の着ていた衣類にも相当量の血液が附着することが普通と考えられるのである。然るに被告人は当時着ていた茶色ジャンパーには血は附いていなかったと述べ本件犯行のあった一月六日以降同月末までこれを着ていたと供述しているので右茶色ジャンパーには少くとも肉眼により識別できるような血痕は附着していなかったのであるから、この点も亦被告人の前記自白が真実に合するものかを疑わしめる一事由である。しかし殺害の方法、その時の犯人と被害者との位置の如何によっては、犯人の衣服に肉眼で識別できる程の血液は附着しないこともあり得ることであるから、肉眼では判らなくとも科学的検査の結果もし被告人の着用していた衣服又は所持品等に被告人のA型血液型(被告人の血液型は医師中村健治作成の鑑定書〔記録第二冊第五六四丁〕によればA型である)とは異り本件被害者両名の血液型であるB型と断定のできる血液型の人血を検出することができたとすれば(被害者両名の血液が何れもB型であることは第一審判決証拠説明に示すとおりである)この事実は被告人の前記自白の真実性を保障し、被告人が被害者大橋一郎同たつを殺害した犯人であると認むべき有力な証拠となり得るであろう。

しかしこの点に関し、第一審判決は、証拠として、警察技官本田親任、同平鴫侃一、同富田喜寿作成の鑑定書中「被告人が着用していた茶色ジャンパー(証第一三号)の左右袖口より人血を認め、この部よりの血液型はB型のように思われる結果を得た」旨の記載、及び医師鈴木完夫作成の昭和二五年四月七日附鑑定書中「被告人の所持せる白木綿ハンカチ一枚(証第一六号)には、全体にA型物質が附着し、一部には人血らしきものの附着を認め、この部分はAB型と思われる反応を呈す。即ちA型物質の附着せるハンカチにAB型若しくはB型の人血らしきものが附着すると考えらる。」旨の記載を掲げている。ところが右茶色ジャンパーは被告人が昭和二四年暮から引続き同二五年一月末まで着用していて、本件犯行のあった一月六日当時も着用していたものであるというが(被告人の自供記録第三冊六三〇丁裏、証人須藤はな証言同六六九丁)、これをその後洗濯したとの事実を認むべき証拠は記録に存しないのである。そして前記警察技官本田親任外二名は、右ジャンパーに人血が附着しているか否かの鑑定を命ぜられ、第一審判決が証拠として援用した前記鑑定書を作成したのであるが、その鑑定書によれば、「茶色ジャンパーに先ずルミノール螢光反応を実施して見ると、右袖口は前方、左袖口は後方外側より内側にかけて右は一四×一二糎、左は九×一四糎の範囲に限局した弱い螢光を認めた。この部よりのベンチヂン反応は陽性であった。其処で右袖外側から<1><2><5><7><B>の、左袖外側より<A>左袖内側より<3><4>の資料を切りとった。尚対照としてジャンパーの背中下部裏側の約一糎程の縫込をすそより約一〇糎上部で二・〇×一・〇糎を切り取った。これを<6>とす。これらの切りとった片々の人血反応を行って見ると、<7><5><4><3>よりは陽性に、<1>よりは陽性とは思われるが不詳に、<2>よりは不詳に、対照の<6>よりは陰性に夫々現われた。尚<A><B>は疑陽性で不詳であった。これら茶色ジャンパーの血液型は別表(省略)のようである。又茶色ジャンパーよりの血痕反応は両袖にのみ認められ他には認められないようである。

又茶色ジャンパーの前対照資料よりは、血痕の反応は陰性である。

考察、茶色ジャンパー左右の袖口より九ケ所を切り取り血痕反応、人血反応を行いその結果をまとめると、<7><5><4><3>部よりは陽性の反応を認められるが他より不詳の結果を得ている。其処でこの四ケ所の血液型はどうかと見ると、<4><3>と<7>よりはB型とも思われる反応を示し<9><A><B>は不詳となった。又人血反応が最も不明瞭であった<2>よりはA型とも思われる反応を示している。この血液型検査に於て対照を一つは血清のみのもの、も一つは血痕の認められない最も汚染されていない部から検査物と全く同様の操作で対照試験を行って見ると、ジャンパー自体がA型に反応して来るのである。その反応は非常に著明である。このように血痕の附いていない服自体よりA型の反応を認められるということは、服の持主がA型であり長い間に分泌物が附いていたものとも思われる。何れにせよ服自体がA型を示しているのであるから、これに人血が附いた処の血液型検査成績はこの附着していただけの型的の変化が加わっている筈である。そこで血清のみの対照、資料自体の対照と人血反応陽性部よりの成績を比較して見ると、<4><3><7>が僅かではあるが抗Bの吸着が認められ、しかも抗Aの吸着が著明でないことよりB型の型的物質を持っているのではないかと推定出来る。その上これらは人血の反応を示しているものである。然しその差が非常に微妙なので断定したことは云い難いのであるが、非常に薄められたB型の血液が附いていたと思えぬことはない。尚<A><B>も前記の考え方より云えば、B型のような反応を示している事になるが、これらは異った血清でしかも比較的高い凝集価の処で血液型検査を実施した三回の成績の平均であるので、他と比較するのは隠当でないので不詳と云わざるを得ない。又<2>は人血の認められなかった所であるが、この反応は対照と殆ど同様であり微量ではあらうが血痕の認められる所の成績と相当差を生じて来ることは面白い現象である。袖の外部ではあるが或は自己の体液のようなものでも着いたのかもしれない。<1>に於ては抗A、抗B共に同じ程度に吸着されているので判定困難であり、<5>においては抗Bが著しく吸着されているがこれに相当して抗Aの方も吸着されていることよりこれまた判定困難という結果になっている。以上の所見、考察等より左に鑑定をする。鑑定、茶色ジャンパーに関しては、左右袖口より人血を認めるこの部よりの血液型はB型のようにも思われる結果を得た。尚袖口部の人血は相当稀薄せられたようである。」(記録第三冊第五八〇丁乃至第五八六丁)と記載されているのであって、右ジャンパーはその左右袖口の僅な部分にのみ人血を認め、その部より切り取り試験した切片九個のうち前記<4>、<3>、<7>の三片のみは「断定したことは云い難いが非常に薄められたB型の血液が附いていたと思えぬことはない」という極めて不確かな鑑定結果を報告しているのである。又被告人の所持していた白木綿ハンカチ(押第一六号)は被告人が本件犯行を自認していた当時の供述を録取した検察官作成の被告人の第二回供述調書(昭和二五年三月一四日附)によれば、被告人が犯行後二俣川の河原で手を洗った時拭いたもので、その後洗濯をしたことはない(記録第四冊第一五一八丁裏)というのであるが、このハンカチに対する人血の鑑定の結果は、第一審判決が証拠とした医師鈴木完夫作成の鑑定書によれば「三、検査、白木綿のハンカチに暗室においてルミナール液を噴霧するに三ケ所に淡く発光を呈せる部あり。前記発光部を鋏にて切断して生理的食塩水に浸出す。之を(1)(2)(3)とす。対照として非発光部の生理的食塩水浸出液を作製し之を(4)とす。前記浸出液に氷醋酸加ベンチヂン溶液を一滴加え、更に三%過酸化水素水を滴加するに(1)(3)のみ微かに青色を呈す。細少試験管に抗人血色素血清を少量取り、之に前記浸出液を管壁を伝って静かに重畳せしむるに、二〇分後において(1)のみ僅かに白色輪を生ずるを認む。前記浸出液を濃縮せる後、凝集素吸着法を実施するに、(2)(3)(4)は共にA型なるも(1)のみAB型と推定される結果を得たり。四、鑑定(一)血液らしきものの附着を認められる。(二)一部に人血とも思われるものが附着するを認む。(三)血液型はハンカチ全体にA型物質附着するを認め、且つ人血らしきものの附着せる部はAB型と思われる反応を呈す。即ちA型物質の附着せるハンカチにAB型若しくはB型の人血らしきものが附着せると考えられる。五、説明、(一)検査ルミナール試験は血液の予備試験にして、ルミナールは血液にあふと青白色の螢光を発す。即ち三個の血液らしきものの附着を認むるものである。尚ベンチヂンも同様に血液の予備試験である。抗人血色素血清は人間の血色素とのみ反応を呈し且つ人血以外のものとは反応せず。依って本資料は僅かに反応あるものと認められるも断定する程強く反応せず。人血らしいと判定するに過ぎず。血液型は、ハンカチ全般的にA型物質を証明するも(1)の部は弱いがAB型の反応を表わす、即ち極少量のB型若くはAB型物質が附着しあるものと考えられる。」(記録第二冊第五七六丁乃至第五七九丁)と記載されているのであって、右ハンカチに附着していた血液のうち(1)の部分だけが断定はできないが人血らしいというのであり、又その血液型も、B型若しくはAB型であるというのであって、これ亦明らかに被害者大橋一郎及び同たつの血液型であるB型の人血が附着していた事実を断定したものではない。してみれば前記各鑑定書は何れもこれだけでは被告人の着用し若くは所持していた茶色ジャンパー及びハンカチに附着した血液が被害者の血液型と同型のB型人血であるとは断定できないものであるから、これを以っては直ちに被告人の自白が真実のものであり被告人が本件の真犯人であるとの根拠とするに足りないものである。

又被告人が検察官から押収にかゝる匕首(押第一号)を示された際それ迄一度も示されたことがないのに、右匕首は被告人が殺害に使用したものに相違ないがその時より柄が一寸短くなっていると述べたとの事実も、被告人は検挙前既に新聞紙により本件犯行に供せられた「匕首の柄は、日本楽器株式会社でできたものらしくその柄はプロペラに用うる木であった」との真実を知っていたと検察官に述べているのであるから(記録第四冊第一四九六丁)新聞紙に掲載されていた右事実から想像して前記の如き供述をしたのかもしれない。故にこれを以っても直ちに被告人の自白が真実であるとすることはできない。しかのみならず前記匕首を被告人が入手した経過として被告人の供述するところは、第一審判決が証拠説明において摘録するように、「本年(昭和二五年)一月六日午後七時頃南条下駄工場から下駄でも盗むつもりで、同工場の裏の板戸を開けようとしたが開かなかったので、工場の椽の下から入ろうと思い工場の入口の方へ行き、渡り板の横の羽目板のない所から椽の下に入って二尺程もぐると、左側の羽目板の脇に白い木綿に包んだ物を見附けた。何だろうと思って手に取って外へ出て見ると、白い布片に革鞘に入った匕首と国防色のラシャ地の手袋右手片方が包んであった。私は之があれば見附かった時は之で脅して逃げることもできるから、下駄など取らず何処か他所へ泥棒に入ろうという気になった。」というのであって極めて異常なものである。しかも右匕首は日本刀を切断し、マホガニー材を以って柄とし、これを膠により刀身に接着し、「金竜」と刻印のある革鞘に納めた特殊なものであって(日本楽器株式会社宮崎義明作成の鑑定書記録第二冊第五六七丁)右柄のマホガニー材は日本楽器株式会社において使用されるものの如くであることは記録上判明しているのに、この匕首の出所就中如何にして右匕首が前記南条下駄工場の椽の下に投入されていたのかについては、記録上何等明確にされていないのである。してみれば、被告人が右匕首を入手するに至った事情については被告人の前記異常な自供の他これを裏書する何等の証拠もないのであって、右被告人の供述は全く仮空のものであるかもしれないのである。従ってこの匕首が手に入ったからこれを用いて大橋等を殺害したという被告人の自白はこの点においても又その真実性に著しい疑を抱かざるを得ないところである。なお被害者方裏口に存した足跡の大さと被告人のはいていた運動靴の大さとが一致するか否かについても、争のあるところである。又、被告人が証人新井孝太郎に対し第一審判決が証拠として摘録するような述懐をしたとの事実も亦にわかに被告人の自白を真実であるとする根拠とすることはできない。

本件記録に表われた捜査の経過、被告人の供述、その他各種の資料を仔細に検討するときは、前叙の如く被告人の警察員、検察官に対する右自白は真実性の乏しいものではないかと疑うべき顕著な事由が存するのである。刑訴四一一条は「左の事由があって原判決を破棄しなければ著しく正義に反すると認めるときは、原判決を破棄することができる」として、その三号に「判決に影響を及ぼすべき重大な事実の誤認があること」と規定しているのであって、上告裁判所が同条項により原判決を破棄できるのは、判決に事実の誤認があることを確認したことを要するが如くであるが、公訴事実について自ら事実審理をする権能のない上告裁判所においては、原判決に如何なる事実の誤認があるかを確定することができない場合もあるから、右刑訴四一一条三号の法意は、判決に影響を及ぼすべき重大な事実の誤認があると疑うに足る顕著な事由があって、もしこの疑が存するにかかわらず原判決を維持しその判決を確定させたとすれば著しく正義に反するときは、原判決に法令の違反はなくても、これを破棄することをも上告裁判所に許したものといわなければならない。そして前記のように被告人の自白の外には被告人を本件の犯人であると確定できるような物的その他の証拠がないのに拘らず、被告人の右自白の真実性が疑われる本件においては、右自白を証拠として被告人に前記犯罪行為があるとして死刑を言渡した本件第一審判決の事実の認定は正当であるか否か不明であるから、本件第一審判決には、その判決に影響を及ぼすべき重大な事実の誤認を疑うに足る顕著な事由があって、同判決及びこれを維持した原判決を破棄しなければ著しく正義に反するものといわなければならない。よって上告趣意に対する判断をするまでもなく刑訴四一一条三号、四一三条に則り本件第一審判決及び原判決を破棄し本件を第一審裁判所である静岡地方裁判所に差戻すべきものとし、主文のとおり判決する。

この判決は全裁判官一致の意見である。

(裁判長裁判官 霜山精一 裁判官 栗山 茂 裁判官 小谷勝重 裁判官 藤田八郎 裁判官 谷村唯一郎)

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